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<ナリワイインタビューno.9 井東敬子さん 前編>

新年、あけましておめでとうございます。

本年も鶴岡ナリワイプロジェクトで頑張る仲間をよろしくお願いいたします。

テロ、貧困、気候変動、少子高齢化など暗くなる話題が多く、つい「見ざる・言わざる・聞かざる」になってしまいがちですが、現象の裏にある本質をしっかり見、恐れずに自分の意見を言い異なる意見に耳を傾けることそれが、自分や子孫の明るい未来につながっていると確信しています。

今、世界は、大きな転換期を迎えています。どうやったらこの危機を乗り越えられるのか
誰もが模索中です。

問題は、複雑に絡みあっています。今までと同じやり方では通用しない時代です。

わたしたちは、大きな問題を前にすると、途方に暮れ
なかったことにしたり、他人まかせにしてしまいがちですが、
誰も答えがわからないのだから、仲間と楽しく動きながら見つけていきましょう。

変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから始まると聞いたことがあります。
今、必要なのは、普通の人がちょっと頑張れば動ける仕組み。
それを小さな田舎町でいっしょに創っていきましょう。

2106年元旦

鶴岡ナリワイプロジェクト チームリーダー井東敬子

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ナリワイを始めようと思ったきかっけ

2012年7月、鶴岡食文化産業創造センターのアドバイザーとして関わることになりました。組織の設立目的は、雇用の創出でした。3年で成果をだすことが求められていました。そんな時、藤村靖之先生の「3万円ビジネス」に目がとまりました。敬子さんのおつれあいが10年前に藤村塾に通っていたこともあり、旦那さんと一緒に、藤村先生の那須のご自宅まで突撃訪問したそうです。鶴岡での講演をお願いしたところ、「自分の講演の前と後になにかやること。」と『あなたの住む街はクリエイティブか?』と聞かれたそうです。山伏修行や食文化創造都市を目指しているといった経緯をお話し、熱心に頼んだところ快くお引き受けくださったそうです。

藤村先生の講演会には、平日なのに100人程、東京や隣県からも参加者がありました。

講演会もワークショップも盛り上がり、「これから何か始まるかも!」と期待しましたが、起業する人は1人もいませんでした。数名にその理由を訪ねると①失敗するのが嫌 ②一人でできない ③お金をもらって文句を言われたくないというこの3つがあげられました。

この課題に対し福岡県で小さな起業家を育成している山口覚さん(津屋崎ブランチ代表)に「上手くやコツは一斉に立ち上げる」と聞き、山口さんのところへ視察に行きました。そして、「部活」というキーワードが浮かんだそうです。部活なら楽しく、そして皆で失敗できると。

2014年春、説明会を行い13名が部活をやりたいと手を挙げました。そして10個の部活ができました。10人と部活を始めてはみたものの、何をするか決まっていませんでした。

ナリワイづくり工房部長

今までのやり方をやっているから、今がある。今までにない新しいことをやろうとすれば、モデルがない。だから、やってみようと思ったそうです。
ありがたかったのは、はじめてすぐに諏訪部夕子さんが動いてくれたことです。

布ナプキンづくりワークショップをしたのですが、はじめてのため、計画通りにはいきませんでした。当日、手伝いのママスタッフが来れなくなったり、参加者に対してミシンが足りなかったり。。。でもこの失敗があったからこそ、みんな「あ〜失敗してもいいんだな」と思えるようになったとふりかえります。

「一見、何も考えないでやっているように見えますが、裏ではちゃんと考えているんですよ。15年間の自然学校でのやり方を活かし、体験学習法という学習の手法を取り入れています。知識ありきではなく、まずやってみる。そして振り返って、なぜそうなったのかを分析し、仮説を立てて、また次の案を考えるという教育手法です。」敬子さんはずっとやってきたやり方をナリワイにも活かしてやってみようと思ったそうです。「怖がらずにまずやってみて、PDCAサイクルをぐるぐるまわしていきました。振り返って、次をどうするか考えながら、また進みました。
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これまでの仕事について

20代は大手有名旅行会社で働いていたという敬子さん。団体旅行の営業などでは、1枚の請求書という紙切れで何千万円というお金を動かしていたとか。営業で優秀な成績を納め、表彰もされた敬子さんは、出世コースを歩んでいました。「仕事の現場は楽しかったし、やりがいもありました。でも毎晩、夜中11時頃夕食を食べるような生活を続けているうちに、何かちがうなぁと感じるようになりました。」

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1986年男女雇用均等法が施行され、女性の支店長がどんどん出始めます。、ある日女性の支店長さんが、敬子さんに言いました。「マンションを買ってね、そこから見える夜景が素敵なの。一緒にワインで乾杯しましょう?」それを聞いたとき「私のゴールはそこじゃない」と思った敬子さん。「周りは皆エリート集団。毎日夜中まで仕事をして、最終ゴールは夜景の見えるマンションか?何か違う。」そして「私辞めま〜す。」と何のあてもなく退職し、実家の上山に帰ったのが29歳でした。

地元に戻った敬子さん、やる事がないからと各種講演会を聞き歩きました。そんな折り、外国人花嫁支援のNPOを知り、その事務局に時給700円で勤めました。日本に来た外国人花嫁さんが言葉もわからず、天気にも馴染めず、精神的にどんどん病んでいく姿を目の当りにしました。そのNPOでは、山形県内では、日本語教室と医療通訳を養成カンボジアとフィリピンの国際協力もしていました。

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「なぜ、日本に困っている人がたくさんいるのにカンボジア支援にいくのか?」当初、敬子さんは疑問に思ったそうです。続けるうちに世界には貧困から抜け出せない人が沢山いるのことを身をもって体験したそうです。でも自分がやりたいことは国際協力ではないと感じていました。

敬子さんは大手旅行会社を辞めてすぐの頃、本当は自然体験の仕事がしたいと、当時旅行会社に営業に来ていた自然学校の面白いおじさん(ホールアース自然学校設立者 広瀬敏通さん)に就職の相談をしました。ところがそのときは、年齢を理由に断られてしまいす。当時子どもキャンプの指導は、学生時代からボランティアで手伝っている人が主流だったそうです。ところが、敬子さんが32歳のとき、広瀬敏通さんから「富士山の麓に環境省がビジターセンターを作ることになり、環境省とやりとりする仕事ができたので一緒にやりませんか?」と連絡がきました。

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それから6年間「ホールアース自然学校」という富士山麓にある老舗自然学校で働きました。当時、年間約300校、約4万人の子ども達が修学旅行で訪れました。関西圏から、「本当はディズニーランドに行きたい子どもたち」が富士山にやってきます。一人でクラス40人を受け持ち、樹海歩きと洞窟探険のガイドをしていました。早朝から夜遅くまで、ロープワーク教室、焚き火教室など野外スキルのインストラクターをやっていました。また、自然ガイドを育成する仕事も数多く経験しました。そこでの経験が今に繋がっていると思っています。

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「ホールアース自然学校」にいたとき、最後にやらせていただいた仕事が愛知万博でした。1ヶ月間地球市民村/世界のNGOが集うパビリオンの責任者として、その後5ヶ月は日本環境教育フォーラムとして100人のスタッフと「森の自然学校・里の自然学校」というパビリオンの運営をしました。半年間で54万人の来場数がありました。今までの人生で一番大変な仕事だったと敬子さんは振り返ります。

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ホールアースにいる時に思考が変わりました。「できないことはない」と思えるようになりました。万博終了後は、万博で一緒に働いた仲間とリードクライム株式会社(本社東京)を起業しました。40歳のときでした。

起業2年目、これからというときに、妊娠出産した敬子さんは、産後、働きたくてうずうずしていたそうです。自分の経験を子育てに活かせないかと悶々としていました。ふと回りをみたら東京で自然遊びをしている子どもがいないことに気づきました。子どもにもっと自然遊びをさせたいと思い、1~3才児向けの自然あそび講座『ねいちゃーかーちゃんと遊ぼう』を立ち上げました。(後編に続く


上山市出身
40代・夫と子の3人家族
鶴岡ナリワイプロジェクト 代表
http://tsuruoka-nariwai.com/
リードクライム株式会社 取締役
http://www.leadclimb.co.jp/

 


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