ナリワイインタビュー第16回目は、2015年に「森シエナの『バッチフラワーレメディ』がある暮らし」を立ち上げた森シエナさんにお話を伺いました。
広い世界に憧れた学生時代
鶴岡市出身のシエナさんは、高校卒業後、航空業に関わる人材を育成する専門学校に進学しました。
「子どもの頃から地元を出たいと思っていました。今思うと『田舎はつまらない。都会や海外はかっこいい』と無条件に思い込んでいたのだと思います。フライトアテンダントになって世界中を飛び回ることを夢見て東京の専門学校に進学しました」
その専門学校では、在学中に留学できる制度があり、シエナさんも半年ほどイギリスに留学していました。
「入学した年にアメリカで9.11同時多発テロがあり航空業界の求人が激減しました。私は、英語を使用する仕事に就きたかったので、英語をスムーズに話せるようになるためにイギリスに留学したんです。でも、いざ就職活動となった時に、当時の航空身体検査で『裸眼視力が0.3度以上』という規定があり、私は近視で視力が足りずフライトアテンダントにはなれないことが分かりました。調べれば分かることだったのに調べていなかった。その時に、表面だけの憧れだったのだと気がつきました」
目指していたフライトアテンダントになれなかったシエナさんは就職活動を開始します。
「山形に帰ることはその時、全く考えていませんでした。高校生の時に地元に持っているイメージは限られた世界でしかなくて、やりたいと思うような仕事は地元にはないと思っていました。自立して生きていくために仕事を探さなければと考えていました」
就職と病気、バッジフラワーレメディとの出会い
2004年、シエナさんは、東京都内にある総合商社の物流や輸出入を手配する会社に就職しました。最初は「航空業に関わる求人があったら辞めようかな」というぐらいの気持ちで始めた仕事でしたが、だんだん仕事が楽しくなり、会社の労働条件や人間関係にも恵まれていたためこのままずっと勤めたいという気持ちになっていきました。「望めば他の部署へ移動しキャリアアップという道もあって、頑張れば道が開ける環境だったのですごく楽しかったです」とシエナさんは振り返ります。
そんなシエナさんでしたが就職して4年ほど経った2008年、体調を崩しました。
「酷い頭痛が続き、毎日頭痛薬で痛みを抑えて仕事をしていました。脊髄を覆っている膜から脊髄液が漏れて頭痛を引き起こす脳脊髄液減少症という病気と診断され、手術もしましたが、毎日薬を飲み続けていることに違和感がありました。もっと自然な治療がないかと思って色々調べるようになり、漢方や自然療法、ホメオパシーなどを色々試す中で、私にはバッチフラワーレメディ(*)が合っているなと感じたんです。」
*バッチフラワーレメディ…1930年代に英国の医師エドワード・バッチ博士によって開発された、心や感情のバランスを取り戻すための自然療法。自分の心や感情の状態に当てはまるレメディを選び、必要量を飲むことで内面に調和がもたらされる。現在では60ヶ国以上の国々で医師や看護師、獣医などにも使用されている。
一般社団法人バッチホリスティック研究会 HP
http://www.bachflower.gr.jp/bfr/bfr_top.html
頭痛がすぐに消えたわけではないものの、悩みや今後への不安、体への不安がレメディを飲んだことによって薄れたように感じた、問題自体は変わらないものの自身の捉え方が変わりなんとかなるさという前向きな気持ちになれたとシエナさんは振り返ります。
レメディを通しての学びと二度目の闘病
シエナさんは、病院での治療と並行しながらバッチフラワーレメディの勉強を始めました。
「バッチフラワーレメディ以外にも、同様のフラワーエッセンスは沢山ありましたが、私は、バッチフラワーレメディ開発者、バッチ博士の『病気として知られているものは、身体の中に生み出された最終的な結果であり、深く長く活動してきたいろいろな力が作りだした最終産物です。ですから、物質的治療だけで治ったように見えても、真の原因が取り除かれないかぎり、一時的な軽減以上の何ものでもありません。(『バッチ博士の遺産』より抜粋)』という考えに深く共感しました。私自身闘病経験から、『レメディを飲んだことで病気の本当の原因が取り除かれ、回復に繋がった』と感じていました。脳脊髄液減少症の手術が終わった頃からだんだん症状が良くなってきて効果を実感するにつれて、カウンセリングを通してレメディを人に選んであげられるようになりたい、レメディのことももっと知りたいと考えるようになり、バッチ国際教育プログラムを受講し、勉強するようになりました」
自分が使って効果があったフラワーレメディを同じ病気で苦しんでいたり悩んでいる人に知ってもらいたい、そう前向きに動き出したシエナさんでしたが、そんなシエナさんをまたも病気が襲いました。
「体が疲れやすくなって、腕や足に違和感がありました。寝れば治るかなぐらいに思っていて、最初はそんなに気にしていませんでしたがだんだん強くなってきて前の病気の繋がりかなと思って病院に行ったら、多発性硬化症という難病指定の病気の疑いがあると言われました。足や全身が硬直したり痺れたりして階段一段上がるのにも足を持ち上げないと上がれなくなってしまったんです。自分には、まだまだ内面の不調和があると実感する出来事でした」
問診ではほぼ多発性硬化症で間違いないが、診断が確定しなければ治療が行えないことから、病院で精密検査を勧められたシエナさんは、「病名を確定させるための検査」に疑問を感じたそうです。
「精密検査の結果、もし難病って言われてしまったら一生治らない、完治しないものを背負って生きていなきゃいけないんだと感じたんです。障害者手帳を貰えるかもしれないけれど私はそれが欲しいわけではなく、当時は、難病という烙印を押されるような気がしました」
検査を受けながらも葛藤していたシエナさんは、症状が酷くなってしまえば会社勤めという働き方はできなくなるかもしれないと考え、スカイプなどでも仕事が出来るセラピストの勉強にのめり込んで行きました。傾聴や対話、レメディのことを学び、2012年、シエナさんはフラワーレメディというネットショップでカウンセリングをやるセラピストとして活動を開始しました。
レメディのセラピストとしての活動
「森シエナという名前はその時にセラピスト名で考えてつけました。本名は漢字が読みにくく、発音もしずらかったので、音のいい響の名前で活動したいと考えていた時、シエナという町の名前を思い出しました。以前イタリアに旅行に行った時に、私が今まで既成概念に縛られていたということに気づかされ、そういうものは取っ払った方がいいと考えるようになった出来事があり、そのきっかけがあったのがイタリアのシエナという街であったことを思い出したんです。それでセラピスト名をシエナと決めました。会社員をしていたので、名刺交換や挨拶の場面を考えたら苗字も欲しいなと考えて森シエナにしました」とシエナさん。
イタリア以外にも、イギリス、フランス、イタリア、モナコ、インドネシア等、会社員時代は海外に旅行に行くことが多かったと振り返ります。
セラピストとして活動し始め、体調は浮き沈みもあり退職を考えていたシエナさんは2014年5月、10年勤めていた会社を退職します。
「退職することは決めていましたが、そのあとどうするかは特に決めていませんでした。セラピーを山や森や海があって、都会から少し離れて落ち着けるような環境でやりたいと思い、神奈川県の鎌倉などで探していたのですが、なかなかご縁がなくて、どうしようって思っていたんです。その時に友達から『地元に帰ったら』と言われ、地元にそれまで憧れていた山や森や海がある環境が全て揃っているということに気がつき、地元に帰ろうと決めました」
(後編へ続く)
森シエナ 30代 鶴岡市出身 両親と実家暮らし
森シエナの「バッチフラワーレメディ」がある暮らし
https://www.facebook.com/sienanomori/
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