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<ナリワイインタビュー チャレンジ編>no.19 菅原明香さん 前編

ナリワイインタビュー第18回目からは、今年(2016年度)、鶴岡ナリワイ実践道場に参加し「ナリワイづくりへのチャレンジ」を行っている方々にお話を伺っていきます。ナリワイインタビュー19回目は「あかるさかおる AkarusaKaoru」のアーティスト名で活動する菅原明香(さやか)さんにお話を伺いました。

アメリカでジャーナリストを目指した学生時代

鶴岡市出身の明香さんは地元の高校卒業後、上京し海外留学のためのスクールへ進学。1年間東京で学んだ後、アメリカ合衆国に渡り、カルフォルニア州の短期大学に進学します。

「中学生の時に阪神大震災がありその報道を見て、ジャーナリストという職業に興味を持ちました。災害現地に行ってボランティアをすることと同じぐらい、現地の状況を伝えるジャーナリストの役目は重要だと感じ憧れたんです。日本の大学に行って新聞社やテレビ局に就職するのがジャーナリストへの近道だったかもしれないのですが、当時、日本にはジャーナリズム学部はありませんでした。世界に通用するために英語も習得したかったので、アメリカの大学に進学すれば英語も覚えてジャーナリズムも学べて一挙両得だと思いました。なので高校を卒業したらアメリカの大学に進学しようと決めていました」と明香さんは振り返ります。

それまで海外に行ったことがない、身近に海外の大学に進学した人もいない、高校にも前例がない。高校生の明香さんは先生たちから「日本の大学に行って1年ぐらい交換留学をすればいいだろう」と説得されました。しかし、明香さんのご両親は明香さんの意思を尊重し、東京のスクール、そしてアメリカへ送り出してくれました。「学校は生活費と授業料の負担が出来るだけ少ない、カリフォルニア州の日本人が少ない大学を選びました。英語での授業についていくのが大変で毎日ひたすらに勉強していて、大変ではありましたが、日本での暮らしとは全然違う毎日にカルチャーショックはあったものの楽しかったです」と明香さんは振り返ります。

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アメリカの大学に在学中の明香さん

 アメリカ同時多発テロでの進路変更と一時帰国

しかし、短大を卒業し、いよいよ専門的にジャーナリズムを学ぶ大学へ編入を決めた矢先、資金不足で明香さんは帰国を余儀なくされます。

「ちょうど、短大を卒業する直前にニューヨークで9.11アメリカ同時多発テロがあり、国内での報道をジャーナリズムのクラスで取り扱っていました。報道についてどう思うかというような課題で、悲惨なテロの状況と向き合ううちに『私の心が持たない』と感じました。精神的に不安定になり、将来この仕事をやっていくことに自信がなくなってしまいました。その時ちょうど、実家から『帰ってこい』と連絡があったので、とりあえず帰ってきましたが、目標を失い燃え尽き症候群のような状態でした」

21歳で帰国した明香さんは、鶴岡市内のショッピングモールで店舗スタッフをしながら、家庭教師・塾講師などを掛け持ちし、アメリカの大学に戻るための資金を貯めるために働きました。「ずっと追いかけてきた夢を失った帰国後は、アメリカにもう一度戻るんだということが自分を支えていた」と明香さんは言います。そして明香さんは23歳の時、再びアメリカ合衆国に渡りオクラホマ州の大学に進学します。

何を目指してどう生きていけばいいのか迷いの中だった明香さんは「仕事に繋がるかどうかは考えずに好きなことにチャレンジしてみよう。昔から得意だった絵を極めたい」と考え芸術学部でグラフィックデザインやイラストレーションを学びました。

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大学在学中にさやかさんが書いたイラスト 

 3年間、オクラホマ州の芸術学部で学んでいた明香さんでしたが最初の渡米とは異なり、人種や宗教の偏りがあり辛く落ち込むことも多かったといいます。その一方で、アメリカ中を車で旅行し、美術館や建築を観て回ったことがとても大きな糧となったと明香さん。大学を卒業した26歳の時、明香さんは帰国し、鶴岡市内で働き始めます。

 帰国後、鶴岡での仕事と出産による退職

かつて鶴岡市内で働いていた繋がりもあり、明香さんには帰国後、イラストやデザインの依頼が舞い込むようになります。フリーランスで委託を受けイラストを描いたり、洋服店や養護学校に一時的に勤務したりといくつか職歴を重ねた後、現在の旦那さんと結婚しました。

「旦那さんが神奈川県横浜市に出向になったのを機に結婚し、横浜に1年行っていました。その後、旦那さんの実家がある三川町に戻り、三川町の英語指導員(兼国際交流通訳)としてALTの先生と一緒に英語の授業を受け持っていました。町の幼稚園・小学校・中学校全校を私ともう一人の方とで掛け持ちして、学年毎に指導案を作り、担任の先生と協力しながら授業を担当していました」と明香さん。専門的な職務ながら非正規職員のため、給料は安く大変だったと振り返ります。

14915063_10210585743941278_514169465_n三川町の学校でALTと共に授業を行うさやかさん

「仕事自体はすごく好きだったし、子どもに教えるのも向いていて楽しいと思っていました。でも非正規職員だから、子どもができた時に育休が取れず辞めるしかなかった。育休が取れていれば続けたかったです」

三川町の英語指導員を4年勤めた後、さやかさんは出産・育児のため退職しました。

後編はこちら

 


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